― 男のドライブ旅 古戦場巡り関ヶ原編 全3回 ―

 ◆第1回 そうだ、おじさんは関ヶ原までドライブに行こう!

   男のドライブ旅と言えば、城跡巡りにダム巡り、神社仏閣に鉄道廃線巡りといろいろあるが、その一角に君臨するのが古戦場巡りだ。かつてこの地で戦国武将たちが雌雄を決したのかと思うと、それだけで枯れたオッサンの血も沸き立つ。

   なかでもダントツ素晴らしいのが、天下分け目の決戦が行われた関ヶ原古戦場(岐阜県であることは、論を待たないであろう。カーマニアにして歴史ファンである私も、すでに数回訪れている。

関ケ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらたたかい)は、安土桃山時代慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代
169キロバイト (28,072 語) - 2019年3月29日 (金) 14:41


   関ヶ原がすばらしいのは、武将のオールスターであっただけでなく、田畑が広がる盆地状の地形で非常に見晴らしがよく、決戦当時の風情が濃くうかがえるからである!
 しかも、各武将が布陣した地がすべて比定され碑が設けられ、懇切丁寧な案内看板も充実している。歴史ファンなら誰しも、随喜の涙を流さずにはいられない古戦場なのだ。

  が、そんな関ヶ原合戦について、現在激しい歴史論争が行われているのをご存知だろうか!?

   通説では、1600年9月14日夜、石田三成率いる西軍が大垣城を出、関ヶ原盆地西側に鶴翼の陣を敷く。それを追うように、徳川家康率いる東軍も関ヶ原へ向かい、盆地東側に魚鱗の陣を構える。夜明けとともに決戦の火ぶたが切られ、当初は西軍が押し気味だったが、小早川秀秋の寝返りによって戦況は一変、東軍有利となり、西軍は潰走した――とされている。

   が、これは後世の創作で、実際の戦闘はまるで違う形で進んだという説が浮上しているのだ!

   個人的には、BS―TBSで放送された『諸説あり!』で、初めて関ヶ原新説に接して衝撃を受け、関連書物でお勉強。『歴史群像』2017年10月号の記事「関ヶ原合戦の真実」および、単行本『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』(河出書房新社)をむさぼるように読んだ。

  ◆小説やドラマで描かれる関ケ原の合戦は江戸時代の創作がベース

   関ヶ原新説にも所説あり、なにぶん史料の乏しい昔の話なので、細かい部分は五里霧中ながら、簡単に言えばこういうことである。


(出典 pbs.twimg.com)


  その1

関ヶ原西南の松尾山に布陣していた小早川秀秋(兵数8000)は、開戦前から東軍方に寝返っており、石田三成徳川家康もそれを認識していた

  その2

石田三成率いる西軍(新説によれば2万)が関ヶ原方面に移動したのは、小早川秀秋が東軍に寝返ったことが明らかになったので、それに備えるのが目的。東軍主力と関ヶ原で決戦を行うつもりはなかった

  その3

ところが、案に相違して東軍主力(数万?)も関ヶ原に移動し、西軍は不意打ちを受け、あっというまに壊滅した

  その4

決戦が行われたのは、関ヶ原盆地の中央部ではく、そのやや西、松尾山と天満山にはさまれた狭隘の地「山中」付近だった

   これまで、司馬遼太郎先生の『関ヶ原』をはじめとして、多くの歴史小説のベースとなったのは、明治26年に帝国陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史』。
陸軍が刊行しただけに、公式文書のような存在となって通説化し、多くの小説やドラマに反映され、国民は一片の疑いも抱かずに受け入れてきた。

   が、それは歴史考証を経ていない、江戸期の創作をベースとしたもの。関ヶ原に点在する「〇〇陣跡」の碑の位置も、すべてテキトーだというのだ! マジすか! 

   そんなことを今さら言われても「ウソだろ!?」とか、「よくある突飛な歴史異説のひとつじゃないの」と思われるだろうが、ベストセラーとなった『応仁の乱』の著者・呉座勇一氏(国際日本文化研究センター助教)も、著書『陰謀の日本中世史』(角川新書)の中で、「関ヶ原合戦についても近年、激しい論争が行われている。(中略)西軍の小早川秀秋が合戦以前ないし合戦開始直後に東軍に寝返り、あっという間に決着がついたことは、ほぼ確定した」と書いておられる。

そーなんスか!? マジなんすか!

  ◆モテないカーマニア軍団が新東名で関ケ原へGO!

   というわけで、我々モテないカーマニア軍団3名は、燃費のいいパサートTDI(ディーゼル)に乗り、関ヶ原方面へと向かった。新東名の制限速度120km区間は実に快適であった。

   新東名新名神の各区間が続々と開通したことで、関東から関西へのドライブは非常にラクになっている。東西両軍が相対した関ヶ原も指呼の間! 直行すれば5時間程度で到着できる。もちろん鉄道で行くのも風情があるが、現地での移動に苦労する。現地でレンタカーを借りるなら、最初からクルマで出発したほうがいい。複数名ならば、鉄道より断然安上がりでもある(次回へ続く)。



取材・文/清水草一 写真/池之平昌信

【清水草一】
1962年東京生まれ。慶大法卒。編集者を経てフリーライター。『そのフェラーリください!!』をはじめとするお笑いフェラーリ文学のほか、『首都高速の謎』『高速道路の謎』などの著作で道路交通ジャーナリストとしても活動中。清水草一.com

  
関ケ原の合戦はあったと思いますが、我々が習った内容とはちょっと違うかもしれません!
(出典 news.nicovideo.jp)

<このニュースへのネットの反応>

山中説には全く賛同できない。西軍先鋒宇喜多秀家の軍は全滅といえる被害を受けている。戦後処理が備州では異常に手早く済み、抵抗のようなものはまるでなかったほどに。小早川秀秋が大手を振って岡山城に入れたほどに。あの清水宗治が毛利v織田のど真ん中で踏ん張っていた備州が、だ。


歴史は商社が描くもの


まー史実と逸話は違うからなー。しっかり調べて頂戴。ソレまではとりあえず関が原でしょ。


小早川秀秋は合戦開始前から東軍だったのに、後世において合戦後に東軍に寝返った諸将が”裏切者”の誹りを避ける為にスケープゴートにしただけ、子孫がいないから否定する人もいなくて悪役にするには都合が良かった


もちろん面従腹背期を観て敏、な備前備中の武将風土はあるが、おのが領土の若者が一族含め*れている。身内の死には非常に感情的になるのも備前備中の侍気質だ。現に備中の三村氏は、宇喜多と毛利の同盟時代、宇喜多憎しを貫き、勝ち目のない抵抗をしている。


過去の人間は全く信用しません論


一つだけ山中説を可能にするならば、小早川家の悲願であった備州制覇、寝返りの代償として東軍全軍に認識されていて、東軍による宇喜多リンチ大会が関ヶ原であった証拠が出ること、西軍の傍観が証明されること。この二点があれば支持してもいい。


古戦場って行っても大して見る物は無い。ワーテルローもそう。自分でイマジネーションを膨らますしかない。


まぁ、元寇の時に『お行儀のいい』戦い方で痛い目を見た後、双方見合って互いに突撃、ってな合戦を続けるか?とは思ってた。


でも、異説の方を裏付ける史料の方が他出しているのよね。単純に、大坂冬の陣・夏の陣で勝敗が決まったのは、関ヶ原が(結果的に)ショボい戦だったから。


「〜は無かった!」「〜のウソ」って本を多く見かけるが、オカルト本的な胡散臭さがわんさ*る。他と違うセンセーショナルな見た目で売りたいだけなんだろうな。


もちろん岡山県民であるわたくしは明石氏(宇喜多筆頭家老家)による雌伏指示説も知るが、実際に明石氏が大阪城の抵抗戦に引き連れたのは、池田家によって弾圧されていたキリスト教徒がほとんどだ。こうなるのか、という疑問は残る


関ケ原であったよ、俺は大谷隊に配属されてたから知ってんだ


>>YY 最近の研究だと行儀のいい戦い方なんてしてないどころか当時は武士全体が戦国九州地方レベルであれで、相手がビビりまくってたらしいけどね・・・>元寇


結果的に、江戸時代の「講談」文化が、話をシリーズ化させ。それぞれに見せ場を作る、ある意味で「三国志演義」的な手法だったので、実際はショボいイベントも大イベントのような話になって定着してる事例は良くある。


小早川隊はあからさまに不審な行動を取ってたから、西軍としても小早川隊は絶対に裏切ると気づいてた。問題は、その小早川対策の為に配置した西軍部隊が軒並み裏切った事。


小早川は少なくとも主観的には、交渉で西軍をあしらいつつようやく籠城可能な松尾山(忘れやすいがここは廃城)に入城したって感じで、開戦前どころか一連の衝突が起こる前から東軍のつもりだったと思う。


小早川は松尾山に布陣した時点でそこにいた西軍と衝突して追い出してるから、その時点で誰が見ても東軍の状況、大谷隊が布陣してたのも裏切りを予感してたとかじゃなくて最初から小早川対策


小早川東軍決定説には異存がない。現にキーマンである小早川家老平岡頼勝は、備前の下津井城を与えられ、児島二万石の禄を得ている。平岡頼勝の妻は黒田長政のいとこであり、下津井城初代城主は、黒田長政の豊前国人一揆に応援として参加し、戦死している、という因縁がある。配分まで決まっていた、と思われる。


無学でスマンが、小早川が周知で東軍だったなら何故、むざむざ大谷刑部が討死したん?教えてエロい人!!